お陰様で11月15日、角川春樹事務所より書き下ろしの『天海の暗号~絶体絶命作戦(上・下巻)』が刊行された。明日が見えない絶体絶命の境地に置かれている現代人に向けて、友海、蒼海の熱い激励のメッセージを込めさせていただいた。
ちなみに、帯のキャッチコピーをご紹介させていただくと『凄い、凄すぎる! この物語を着想した作者の想像力に脱帽だ』(文芸評論家・細谷正充氏)、『信長の秘宝を賭けた史上最大の籠城戦52人対3万人の超絶戦を目撃せよ!』、また細谷氏の解説には『興奮必至の長編』と好評をいただいている。
『家康の暗号』も角川春樹事務所から刊行中。閉塞感に満ちた現代社会で絶望の虜になっている人々に対して熱いメッセージを込めさせていただいている。私が主張したかったことは『闇は必ず光を連れてくる』という誰もが忘れかけた一片の真実なのである。こちらも、ぜひご一読を。
さて、今、企業はリストラ、リストラの連呼である。家族のような企業文化がもてはやされた時代は遠い過去のものになってしまったようである。社員はいつ自分がリストラされるのかという恐怖心と向き合わねばならず、そのため「俺だけは残りたい」「あいつには負けたくない」とばかりに、社内にもどこか冷やかな空気が流れているようだ。
企業だけではない。国家でもそうだ。知らない人とは話をしてはいけない、とわが子に言い聞かせなければならず、通学にしても親や近所の有志が見守らねばならない時代になってしまった。実に冷たい世界になってしまったものだ。
しかし、戦後の日本人は温もりのある日本をもう一度造り上げようと血の滲むような努力をしている。たとえばリッカーミシン創業者・平木信二(1910~1971)のエピソードをご紹介しよう。
一代でリッカーミシンを日本有数のミシン製造メーカーに押し上げた、この平木信二は、梶山季之氏が小説現代(講談社)に「小説平木信二」を発表し、『男たちの大和』で有名なノンフィクション作家の故・辺見じゅん氏が『夢、未だ盡きず』(文藝春秋)というタイトルでその人生を描き上げるほど魅力と異彩を放った人物である。
ちなみに、このリッカーミシンは1948年(昭和23年)に19万5000円の資本金で発足した小さな会社であった。だが、1963年(昭和38年)には30億円の資本を有する一大企業となり、支店も500余、従業員数も約1万6000人を擁するまでに成長したのである。
平木は社員を慰労するために、よく3時のおやつを配って回ったことがある。日曜日などは、おやつを差し入れるためだけに会社に顔を出すことがあった。
ある日曜日、総務部にいた西牟田俊郎のもとに女子社員が血相を変えて飛び込んできた。彼女は手にキャンディーの束を握りしめている。
「課長、この間からずっと、変なおじさんがお菓子を配ってるんです!」
それを聞いた西牟田にはピンときた。そして苦笑しながら、
「そりゃ社長だよ。君は社長の顔を見たことがなかったのか?」
「……はい。存じ上げませんでした。といいますか、雲の上の人なので……申しわけありません」
「いいんだ。それよりお菓子をもらった他の女子社員には、あれが社長だと教えてあげてくれ。まだ知らずに、変なおじさんから黙って受け取っている子もいるだろうからね」
このとき平木が配って回ったお菓子とは、社長である以前に人としての、平木の感謝の気持ちだったのである。
余談ではあるが、西牟田は拓殖大学空手道部主将を務めた男で、才気煥発であり、仕事もできるやり手の男だった。しかし人事異動で、西牟田の同僚が先に出世したことがわかった日の夜、平木と飲みにいった西牟田は、酩酊し、なぜ自分を出世させなかったのかと詰め寄り、あろうことか手にしていたグラスを平木にむかって投げつけたのである。幸いグラスは平木の顔を外れ、背後の壁に当たって割れ落ちた。だが翌日、酔いの覚めた西牟田はさすがに背筋が寒くなり、懐中に辞表をしのばせて社長室に向かったのである。そして辞表を手渡したところ、平木はそれをビリビリと破りながらこう一喝した。
「ええか、よう聞け。これから大仕事をするのや。リッカーにスポーツ部を置く。陸上と野球や。この二つで日本の実業団スポーツの覇者に躍り出る」
「しかし社長、私は夕べ……」
「ああ、あのことか。そんなんどうでもええわい。君は大仕事をせい。それに失敗したらいつでも辞表は受け取ったる」
こうした事件がきっかけとなって西牟田は、平木に心酔していくのである。
経営者から従業員への感謝の念が失われたとき、その企業は日本型の新自由主義を生き残ることはできない。人を単に労働力とみなすことは人を機械化することである。
しかし真の経営者とは、ともすれば機械的労働者になりがちな労働者を人に戻すための、いわば中和剤のような役割を果たさなければならない。そのための工夫が平木の場合はおやつの差し入れだったのだ。
これは社長だけでなく政治家も役人も同じで、我も人なり、彼も人なりの精神でもう一度国家や企業の体制を築き直すべきである。
さて、平木の人間の器を物語るもう一つのエピソードをご紹介しよう。こんな話だ。
リッカーミシンの伝説的なセールスマンであった太田善四郎が、ある年の年末に本社を訪れると、平木にこうねじ込んできた。
「社長、この会社はわれわれセールスマンが前線で一生懸命がんばっているから持っているんですぞ。セールスマンが成績を上げなければ、会社はやっていけない。だから成績のよいセールスマンを集めていっぺん酒席に招待してもらいたい」
ここから先のエピソードは故・辺見じゅん著『夢、未だ盡きず』がこのように活写している。
『胸を張って声高にそう言う太田を見ながら、なんでこの男はこないに威張っとるんやと思った。しかし、日頃、販売部長や課長からも促されていたこともあり、「よし、やってやろう」と承知した。すると太田は神田の本社にバス一台分ほどの数のセールスマンを引き連れてきた。タクシー二、三台で足りる人数とタカをくくっていた平木は慌ててバスを出させ、宴会場へとくりだした。
そこまではよかったが、宴が始まるとセールスマンが一人ずつ平木の前に進み出て、「一杯だけ受けてください」と盃を突き出しつづけるのには閉口した。何十杯もの杯を受け、二時間ほども経ったころ、このままいてはどんなことになるかわからないと、便所へ立つふりをして逃げ出すことにした。うまく玄関までは脱け出せホッと一息ついたのに、なんとそこには太田が待ち伏せていたのだ。顔が合うと、太田が吼えた。
「こら社長、参ったか。参ったなら参ったといえ。言わんと帰さんぞ」
太田の酔いのにじんだ顔を見つめたまま、平木は真顔で「参った。この通りだ」と言いつつ頭をさげた。頭までさげたにもかかわらず、太田はさらに、
「そんなに帰りたいなら帰ってよろしい。しかしわれわれはここで腹いっぱい飲んだ後、二次会に出かけたい。だから三万円、置いていってもらいたい」
と言いつのった。
「わしは頭まで下げたうえに、三万円とられてしもうた」と、平木はいかにも楽し気に話をしめくくるのが常だった。そしてこうつけ加えることも忘れなかった。
「いまでもセールスマンが威張っている店はひじょうに成績がいいんだ。それがこのころはみなちと上品になりすぎているような気がするが、どや」』
大事なことは、平木が社員をわが子のように思っていたことだ。ここに出てくる太田善四郎は、やんちゃセールスマンであったが、彼が憎まれ口を叩いてみせたのは、セールスマンの間に溜まっていたストレスを発散させるためであった。太田はそんな彼らを代表して平木の懐に飛び込んでみせたのである。そして平木もまた懐中に彼らの持つストレスを収めてみせたのだ。
こうした器量によって、平木信二はリッカーミシンという「のれん」を主婦の応援団という形で「公ののれん」に仕立て上げてみせた。
ここにおいて企業の存在は地域や国家になくてはならぬ「文化」として認められるのである。つまり平木信二という怪物は会社を含めた地域社会と日本という国家を愛してやまなかったのである。
今、政治家をはじめ企業家に聞きたい。あなたは地域社会と日本を心から愛しているか? と。
寒くなって参りました。皆さん、どうぞ暖かくしてお体をご自愛ください。
中見利男拝