この度の令和6年能登半島地震でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。また行方不明の方々が一刻も早く救出されますように、被災された方々が心穏やかな日々を過ごすことができますように心よりお祈りしつつ、応援させていただきます。
さて、元旦の日本を襲った激甚災害と、奇跡の救出劇と海保機の悲劇を同時に生んだ羽田空港の航空機事故に関して最大の危機の幕がいよいよ開いたな、と思わず息を呑んだ。
とりわけ象徴的な出来事があった。
それは震災当日、やかんの熱湯を浴びながら病院で救急治療が受けられないまま4日後にお亡くなりになった5歳の中川叶逢ちゃんの事だ。この一件が脳裏から離れなかった。
それは日頃から私が主張している事と関係があるからだ。
医療とは誰のためにあるのか?
医師や病院の経営や方針のためにあるのか?
そもそも病院を開業するということは命を救うために、つまり患者を救おうという理念を追求するために行う行為ではないのか?
儲かるから医業を始めたのか?
社会的地位を得るために医業に携わっているのか?
違うだろう。
目の前にいる困った人を救うためにこそ医療が存在するのではないのか?
まして目の前にぐったりした幼子が現れたなら我が事のように症状を見て緊急性を要するかどうかを瞬時に判断するのが医療ではないのか?
マスデータならこのケガは大丈夫だ!
多くの人は自宅に帰っても大丈夫だ。
そう考えたのならそれは大きな間違いだ。目の前にいるのはデータや統計学の数字ではない。
命なのだ。
まして幼き命が熱を出してぐったりしているのだ。
通常の手当かそれとも緊急事態かどうかは統計学ではなく、個人の命として判断されるべきだ。
私自身の経験から言えば、医師から「みんなこの薬が効いてますよ」と言われても100%信じない。
かつて今の主治医の病院とは別の病院で、例えば多くの人がこの降圧剤が効くからという理由で処方された薬が私には合わず甲状腺に副作用が出て、その結果としてクレアチニンが異常に増加したため透析準備に入った事がある。
しかし別の病院の現在の主治医以下のチームが薬を解析した結果、飲み合わせが悪く、そのためにクレアチニンが急上昇したことを突き止めてくれて事なきを得た事がある。
それと同じく人間は一人一人体質や体力、耐性が違うのだ。
多くの人はその火傷に耐えられても5歳のあの幼子には耐えられなかったのである。
診るからもう一歩進んで観るという心を失えば結果として取り返しがつかない事が生じるのである。
前述のように医療は診るという漢字を当てる。
患者の症状を科学的に捉えるという意味である。
しかし名医は診ることをゲートだと考える。ゲートを潜り抜けた彼らは患者を観るのである。
その上で判断を下すのだ。
医師を志す以上、どうか診るで終わるのではなく観るを大事にしてほしい。
もっと言えば患者を観よ!
そこに命があるのだ。
その命を観よ!
診て感じるのだ!
羽田空港の件もそうだ。
多忙を極めるために滑走路監視表示を見落としたというが、空から舞い降りてくるのは鉄の塊ではない。
命なのだ。
これから滑走路を飛び立とうとしている航空機は命を乗せているのだ。
管制官を責め立てる気はないが、あなたたちは命の番人であり守護者なのだ。
日本人一人ひとりが忘れかけていること。それは命の光を観るという事だ。
医師の皆さんもどうか思い出して欲しい。
皆さんは目の前の患者の命の番人であり、守護者なのである。
頭から決めつけるのではなく、まず命を観ているかどうかを自らに問うて欲しい。
忙しさを口実にせず、命を守る守護者であることに誇りを持って医療に取り組んで欲しい。
政治家はもちろん経済界も官僚の皆さんも、そして我々ももう一度命を観るという気持ちを思い出そう。
それがこの危機を脱する唯一の鍵になるだろう。
ご多忙と存じます、皆様どうぞご自愛ください。
中見利男拝