『不易流行と武士道Ⅱ~吉田松陰と松下村塾の秘密と謎』

 ご無沙汰しております。
 昨年は豪雪、ゲリラ豪雨、地震、竜巻などの天変地異が続き、正しいと主張されていたことが覆されたりと違和感というより、むしろ異和感の『異』の年でした。しかし2015年は異から大いなる『和』へと変化する『大和』の年になると信じております。
 とくに私が顧問を務めさせていただくがん撲滅サミット(2015年6月9日〈火〉午後11時30分開場、12時30分開演、パシフィコ横浜、大会長・林基弘先生)は大和魂を持った人々が立ち上がるがん撲滅へのチャレンジです。ぜひともご支援ください。詳細はがん撲滅サミットURL(http://cancer-summit.jp/index.php)をご覧ください。
 また1月15日には新刊『吉田松陰と松下村塾の秘密と謎』が宝島社より刊行されました。お陰様で好調に推移しております。
 吉田松陰という謎の人物の正体は!?
 松下村塾は革命機関だった!? 
 大老・井伊直弼が放った女スパイとは!?
 伊藤博文は暗殺者とスパイの二つの顔を持っていた!!
 など、吉田松陰と松下村塾に隠された謎が次々と明らかにされる歴史ミステリです。本当は恐い彼らの素顔を知ることのできる一冊として、ぜひご一読を!

 さて、ここからは吉田松陰の人生について数回に分けてお届けしたい。
 密航計画が露見して、ついに野山獄へ友人の金子重輔とともに投獄された吉田松陰。

▼野山獄で開花する吉田松陰
 その後、岩倉獄に投獄された金子重輔は劣悪な環境のため二十五歳という若さで病死。一方、道一本隔てた野山獄にいる松陰は金子の死を嘆き悲しんだが、獄中で囚人たちを相手に「孟子(もうし)」の講義を始める。これがのちに松陰の主著『講孟余話(こうもうよわ)』としてまとめられることになった。また後に、松下村塾の助教授となる富永有隣(とみながゆうりん)とは、この野山獄で出会うのだ。野山獄は当時、借牢(しゃくろう)といわれ、一般の牢獄とはやや性格を異にしており、藩の裁きを受けた囚人というよりも、ここに収容されるのは身内から疎まれた人々であった。そのため借牢では囚人は丁寧に扱われ、読書をしたり、囚人同士で話をする自由が認められていた。
 その一方で、家族が引き取りを拒否すれば永遠に収容されるといった恐ろしい面もあった。事実、松陰が入獄するとき、藩は父・百合之助に対して、野山獄への入牢を願うという依頼手続きをわざわざ取らせているのである。
 さて野山獄に入った吉田松陰は「猛の未だ遂げざるもの尚(な)ほ十八回あり」と自らを叱咤激励し、神人の如(ごと)き精神の純化によって、この困難を切り抜けようとする。
 その結果、安政元年(1854)10月24日の入獄から安政2年(1855)12月15日の出獄の日までの間の約1年間で、実に596冊もの書物を読みこんでいるのである。こうした松陰の読書家ぶりに興味を持ったほかの囚人たちは、松陰の入獄から半年後には座談会を持つようになり、その中心に座った彼は世界情勢や日本外交、国防問題、国力の充実などをテーマに語り合ったのである。松陰の『獄舎問答(ごくしゃもんどう)』によると、彼は囚人たちに国家の存在に視点を向けさせるために経書、兵書、史書など読書に関心を持つよう指導した。その結果、より深い知識を求めるようになった彼らのリクエストに応えて座談会は、やがて読書会に移行する。

▼野山獄の教育プログラムとは?
『野山獄読書記』によると、このときの松陰は別人のように勉学に励んだという。そのプログラムは次のようなものだった。
(1)安政2年4月12日から『孟子』の講義をはじめ、6月10日に終了。
(2)6月13日から『孟子』の輪読会が開かれ合計34回行なわれた。
(3)7月17日、輪読会と並行して囚人の吉村善作(ぜんさく)、河野数馬(こうのかずま)の2人と『日本外史』を対読する。
(4)7月21日から『論語』の講義をはじめ、8月24日まで続けられる。
 こうしたなかで松陰は孟子を探求するため『講孟余話』をまとめている。このほか、俳句や詩歌の会や書道の講義も行なわれたのである。また寺子屋師匠の吉村善作や河野数馬は俳諧に秀でており、前述の富永有隣は書道に優れていたため、逆に松陰は彼らの弟子となり教えを受けたという。特に俳句の講義は囚人の心を豊かにし、忘れかけた感性を取り戻すことに役立った。
 ところが当時の人々は学問の目的を名誉を得る手段にしたため、結果として大局観(たいきょくかん)もないままに人格形成をおろそかにした人間が生み出されていることに気づいた松陰は、だからこそ無期懲役の囚人でも、いったん学問を志せば本物の人になれると説いたのである。
 事実、安政2年12月15日に出獄を許された彼は、「もし、このまま自分が獄中に居続けたなら、必ず獄中から一、二の豪傑(ごうけつ)を出してみせるであろう」と断言しているのだ。

▼ついに松下村塾誕生!
松下村塾の雛形(ひながた)になった野山獄に投獄されて1年2ヶ月が経過した安政2年(1855)12月15日、出獄を許された松陰は、長州藩から自宅謹慎を命じられ、実家の杉家に戻った。
 このときのことを松陰は「12月15日、余特恩にて獄を脱して家に帰る。而(しか)れども禁令頗(すこぶ)る厳しく、足、戸庭を出でず、席に故旧を延かず、室を掃って静処して独り書と親しむ」と記している。
 この謹慎中に松陰は未完の『講孟余話』を完成させるため、父・百合之助等を相手に孟子の講義をはじめ、安政3年6月18日に完成させている。これは学問論、国家論、特務論、教育論など多岐にわたったもので、くしくも自宅において野山獄編の『松下村塾教科書』を完成させたわけである。
 やがて謹慎中であっても松陰から学問を学びたいという近所の子弟が集まり、私塾が必要となってきた。自宅には幽囚室が設けられ、親族や近隣の人々に孟子の講義を再開した。この講義は松陰独自の解釈として評判になり、その噂は萩城下に広まっていく。
 ちょうど、この頃、松陰の叔父・玉木文之進が開いた松下村塾は久保五郎左衛門(くぼごろうざえもん)という近所で読み書き、そろばんの塾を開いていた人物が引き継いでいたが、松陰の講義に久保五郎左衛門が参加するようになり、結果として松下村塾の主は松陰になっていく。最初は3畳の幽囚室で行なわれた講義も手狭になったため、杉家の納屋(なや)を塾舎に改修し、安政4年11月5日、8畳1間の松下村塾が、ついに誕生した。
 このときの入門者は約80名と推定されているが、松陰は「往く者は追はず、来る者は拒まず」という姿勢だったため、入門者は士族、足軽、農民の子、医者の子弟など身分はさまざまであった。しかも門人一人ひとりの個性を重視したため、自由で開放的な雰囲気のなかで学習が始まったという。
 安政3年9月、松陰は『松下村塾記』のなかで教育理念についてこう述べている。
「学は、人たる所以(ゆえん)を学ぶなり。塾係(か)くるに村名を以てす。誠に一邑の人をして、入りては則(すなわち)ち孝悌(こうてい)、出でては則ち忠信ならしめば、則ち村名これに係くるも辱ぢず。……神州の地に生れ、皇室の恩を蒙(こうむ)り、内は君臣の義を失ひ、外は華夷(かい)の弁を遺(わす)れば、則ち学の学たる所以、人の人たる所以、其(そ)れ安(いず)くに在(あ)りや」
 つまり、わかりやすくいえば尊皇攘夷(そんのうじょうい)思想を重視し、強い日本と日本人を取り戻そうというのが松下村塾のモットーであった。そのためにはこれまで幕府が重視してきた身分を縛る学問ではなく、新しい時代に耐え得るだけの大和魂と大局観を備えた本物の武士道を身につけた人物を育てようと考えたのである。その証左に彼は安政5年4月ごろにこう言っている。
「学問の節目を糺(ただ)し候事が誠に肝要にて、朱子学ぢゃの陽明学ぢゃのと一偏(いっぺん)の事にては何の役にも立ち申さず、尊皇攘夷の四字を眼目として、何人の書にても何人の学にても其の長ずる所を取る様にすべし」と。
 朱子学だの陽明学だのと権威主義に陥るのではなく、大事なことは何のために学ぶのかであって、そこに尊皇攘夷という一大理念に基づいた信念があれば、どんな書でも学問でも長所を学べばいいではないか、というのである。
 これは裏を返せば、将来的に和魂洋才を成しうる人物を目指すべきとも受け取れるが、ともかくもその前に尊皇攘夷こそが松陰と松下村塾の一大テーマであることに変わりはなかった。

▼吉田松陰が主張した師弟同門とは?
 このとき松陰は野山獄で打ち立てた論理を松下村塾にも応用しようと考えていた。それは昔の聖人、賢人に対して、今の師も弟子も、しょせんは門人に過ぎない以上、師弟ともに弟子として精進するしかないというものであった。それについて彼は、こう述べている。
「道は古聖賢大云ひ尽せり、行なひ尽せり、今の学者多くは其の書を観て口真似を為すのみ、別に新見卓識古人に駕出するに非ず。然れば師弟共に諸共聖賢の門人と云ふものなり。同門人の中にて妄りに師と云ひ弟子と云ふは、第一古聖賢へ對して憚り多き事ならずや」
 わかりやすくいえば大概の学問はすでに聖人や賢人によって確立されているのだから、それを学んだ人間が師を名乗るのは馬鹿げている。となれば、それを学ぶにあたって師も弟子もないだろうというのが松陰の発想なのである。
 つまり「師弟同門」という理論である。たとえば安政四年に馬島春海(まじまはるみ)が松下村塾に入門したとき、松陰は彼に「教授は能(あた)はざるも、君等と共に講究(こうきゅう)せん」と語っている。つまり「教えることはできないが君たちと共に学ぶことはできる」と言って松下村塾は松陰と弟子が一体となって育てていくものだと主張したのである。それは吉田松陰が自らを師といわず、門人を弟子とせず「兄弟」として接したことにあらわれており、学校というよりも「同志の結社」として松下村塾をとらえていたということである。
 こうした教育方針と、その評判は、やがて長州藩全土に広がり、萩ばかりか遠く離れた地から志ある若者たちが続々と集まってくるようになった。
 この松下村塾で松陰が教育に当たったのは安政3年(1856)8月から安政5年(1858)12月までのわずか2年余りだったが、この短期間のうちに松陰は塾生たちと農作業をしながら互いに意見をぶつけ合う独特の教育法で、その思想を浸透させていったのである。
 このとき松陰の教育を受けたのが、久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作(たかすぎしんさく)、吉田稔麿(よしだとしまろ)、入江九一(いりえくいち)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山縣有朋(やまがたありとも)、前原一誠(まえはらいっせい)、品川弥二郎(しながわやじろう)、山田顕義(やまだあきよし)、野村靖(のむらやすし)ら、幕末・明治の日本を近代化に向けて牽引(けんいん)した人物たちであり、彼らは松陰から受けた「人間とは何かを学ぶことが重要であって、決して学者になってはいけない。大事なことは実行者になることだ」という陽明学を基本とした教えをつねに胸に秘めていたのである。しかも松陰自身が行動する人物であったため、余計に説得力があったといわれている。

▼激動する幕末へ!
 こうして誕生した松下村塾も安政5年(1858)3月に増築して18畳の塾舎が完成。さらに同年7月には、ついに藩から家学教授の許可が下りて、ついに松陰は復権するのである。もちろん塾生には前述のように高杉晋作、松陰の妹・文(ふみ)と結婚し、しばらく杉家に同居していた久坂玄瑞、入江杉蔵(九一)、吉田稔麿ら、後述する松門四天王のほか品川弥二郎、伊藤博文、山縣有朋ら錚々(そうそう)たるメンバーがいた。また、その一方で松陰は野山獄で同囚だった者たちの出獄運動にも尽力し、のちに松下村塾の補佐教授となった富永有隣ら6名を出獄させている。
 それまで松陰は尊皇攘夷思想を土台にしており討幕派を育成しなかったのだが、欧米列強からの開国要求に屈していく幕府の姿勢を批判し、やがて倒幕する以外に方策はないという勢力が増えていったのだ。
 当初、こうした急進派から批判されたのが、実は当の吉田松陰だったというと驚かれる方もおられるだろうが、彼は急進派からの手紙に対して「至誠(しせい)」を以って粘り強く説得すれば、必ず幕府や大名の考え方は変わり、世の中は良くなると答えているのだ。
 ところが日米和親条約の締結にもとづいて、初代駐日総領事となったハリスが修好通商条約締結を求めたため、老中の阿部正弘(あべまさひろ)が朝廷の意見を求めながら検討を進めていたところ病死したあたりから状況が一変する。幕府の大老に彦根藩主の井伊直弼(いいなおすけ)が就任。井伊は朝廷の許可を得ずして安政5年(1885)修好通商条約を締結。これに激怒した水戸藩士たちは、井伊大老を斬るべしと声を上げ始めた。
 これに対して長州藩も遅れを取ってはならないと、吉田松陰も水戸が井伊をやるならば長州藩は井伊の下で動いている老中の間部詮勝(まなべあきかつ)を誅すべしと主張し始める。
 やがて、この間部詮勝暗殺計画が人生の歯車を大きく狂わせることになるとは、まだこのときの吉田松陰は気がついていない。
 以下、次回へ。
 寒い日が続いておりますが、どうぞご自愛ください。

中見利男拝

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