梅雨の候となりましたが、皆様におかれましては益々ご健勝のことと存じます。
今回は長文となりますが、私が幼少の頃から父親に聞かされてきたことをお伝えしたいと思います。
『汝、風雲を恐れず、あの河を渡れ!』
父から授かった、この言葉には悲惨な歴史がある。
それは第2次世界大戦に遡る。
1942年8月21日、太平洋戦争も熾烈を極め始めていた頃のことだ。
有名なソロモン諸島ガダルカナル島において、日米両軍は激突し、地獄のような戦闘を繰り広げていた。
きっかけは1942年8月7日の米海兵隊2万人の上陸によってガダルカナル島北部に位置しているルンガ岬に日本軍が建設中の飛行場が占拠されたことだ。
そこでミッドウェー海戦で戦死した海兵隊航空指揮官ロフトン・R・ヘンダーソン少佐にちなんで占拠後にヘンダーソン飛行場と改名された飛行場の奪還と、ガダルカナル島の完全奪還のために、日本軍は反撃に打って出る。
まず先発隊の一つに一木(いちき)清直陸軍大佐率いる一木支隊が送り込まれたのだ。一木清直大佐は長野県生まれ。彼の率いる支隊は約900人の先遣隊と約1500人に後援部隊に分けられ、2段階の攻撃を計画。
1942年8月19日未明。ガダルカナル島のタイボ岬という飛行場東方、約35キロ地点に一木支隊約2400人は上陸を開始。
迎え撃つ米軍は約11000人。圧倒的に不利な状況だったが、一木大佐以下全員そのことは知る由もなかった。
むしろ日本軍としては、敵は多く見積もっても約2000人程度だろうと読んでいたのである。だから、それを上回る約2400人がガダルカナル島に送り込まれたというわけだ。
しかし、米軍には兵員ばかりか戦闘機急降下爆撃機31機、さらに飛行場の前に横たわるイル川の西側に沿って陣を配置し、対人用散弾を装備した対戦車砲2門を投入。
いつでも圧倒的火力、戦力で迎え撃つ準備を整えていた。
やがて何も知らない一木清直大佐が率いる一木支隊は20日深夜、飛行場奪還に向けて西進を開始。
しかし、その飛行場のはるか手前には、例のイル川が行く手を阻んでいる。
つまり飛行場を奪還するためには、一木支隊は米軍が守りを固めた、このイル川を渡らねばならないのだ。
そこで8月20日午前10時、一木支隊長は渡河作戦決行命令を下し、午後6時に先遣隊が出発。しかし米軍の陣営がイル川の西岸に配置されていることを確認した彼らは驚愕した。
なぜなら、米軍陣営とヘンダーソン飛行場には、相当距離があるため、そこによもやもう一つの米軍陣営が設けられたとは思いもしなかったのだ。
というのも当初の作戦はイル川を渡った後、飛行場にいる米軍の背後に回り、そこから奪還攻撃を仕掛けるというものであった。
一方、米軍は一木支隊先遣隊の足音や銃や弾薬が触れ合う音、話し声を聴音担当の偵察兵がいち早くキャッチしていたので、すでに日本軍の進軍を迎え撃つ体制は出来上がっている。
そして8月20日午後10時30分、戦闘は開始される。
まず一木支隊先遣隊の第一攻撃隊100名がイル川渡河作戦を開始。隊員は胸まで川に浸りながら、ゆっくりと進軍していく。
しかし日本兵士がイル川の白砂州に踏み込んだ次の瞬間、イル川西岸に設置された対人散弾(キャニスター弾)を対戦車砲と機銃の猛烈な爆音が響き渡り、次々と日本兵の肉体は砕かれていったのだ。
だが、米軍が勝利を確信した瞬間、驚くべきことが起きた。
見れば、何人かの日本兵がイル川の岸にたどり着く否や、稲妻のような早さで反撃に出ると、米軍の機銃陣地を次々に奪還し始めたのである。
これに慌てた米軍は、後続に待機していた中隊に攻撃開始命令を出す。すると多勢に無勢、たちどころに機銃陣地から血しぶきとともに日本兵の姿はかき消えていった。
攻撃開始から、わずか1時間あまりの出来事だった。
悲惨な戦闘によって攻撃中断を余儀なくされた一木支隊であったが、それでも彼らは奪還に向けて次の作戦に打って出たのだ。
8月20日午後11時30分、一木支隊は第2波の渡河作戦を開始する。
約200名の兵士たちが、再びイル川を渡るために胸まで身を潜めながら深い闇の中を前進していくと、またしても米軍陣地から火力攻撃を浴びせられ、イル川の流れに呑み込まれていった。
九死に一生を得た兵士がようやく戻ってくると、一木大佐に向かって残存する兵士と共に撤退すべきだと訴えた。
だが、一木大佐はこれを退け、無謀とも思える渡河作戦の続行を決断するのである。
撤退どころか、すぐさま迫撃砲によって西岸の米軍陣営に向けて攻撃を開始。
一方、米軍も対岸から一木支隊の陣営に向けて75ミリ砲、迫撃砲の猛攻撃でこれを迎え撃つ。
しばし空中戦が続く中、一木大佐は21日午前2時に3度目の突撃を命令。今度は北方に広がる海の方向に回り込むと、そこからイル川西岸の米軍を攻撃しようとしたのである。
しかし、この動きを察知した米軍は浜辺に向けて集中砲火を開始。
この攻撃で一度は撤収したものの、それでも一木支隊はイル川の東岸から西岸の米軍陣営に向けて銃撃戦を展開したのだ。
恐るべき執念であった。
そして8月21日早朝、焦りを覚えた米軍はイル川西岸の一木支隊を地上と空中から包囲する一手に出る。
まず、イル川を川上に向けて移動したあと、一木支隊を南と東から包囲。イル川のココナッツ村に追い込むと、上空からはヘンダーソン飛行場を飛び立った航空機による機銃掃射をココナッツ村に向けて浴びせかけていったのだ。
さらに米軍が第2次世界大戦前に開発していたM2軽戦車をさらに強化したM3軽戦車5輌がイル川の砂州を超えてココナッツ村に砲撃を放ち、渡河作戦で倒れた日本兵の横たわる白洲の上を前進。
次々と『遺体を』押しつぶしながら暴風雨のような砲弾をココナッツ村に向けて放ち続けたのだ。
そして21日午後3時。一木支隊の動きが止まり、米軍の攻撃もぴたりと止んだあとイル川にようやく静寂が訪れた。
一木支隊は15名の生存者を残し、ほぼ壊滅したのである。
この戦いで一木大佐は自決したという説や、戦闘中に死亡したという説が流れたが真偽は未だに不明である。
しかし、この戦いで真に戦慄したのは米軍の方であった。
なぜなら、戦いが終わって戦場を検分していた米軍兵士が次々と吹き飛ばされていったのだ。
「彼らは死んだふりをしていただけだ。手榴弾を抜いて我々が来るのを死体のなかで待ち受けているぞ!」
かろうじて逃げ戻ってきた米軍兵の報告に幹部たちは青ざめた。
死を偽装してまで最期の戦いを日本兵は挑んでくる。
この事実に驚愕したガダルカナル島の米軍幹部は、すぐさま上層部に「日本軍を決して侮ってはならない。彼らは目の前に横たわる川を渡ろうと何度も挑戦を続け、決してあきらめない。それどころか、死ぬ間際でも我々を追い詰めようと挑んでくる。だから決して日本人を侮ってはならない」という旨の話を伝えたという。
事実、ヴァンデクリフト少将は、「私はこのような(イル川渡河作戦)戦いをこれまで見たことも聞いたこともなかった。彼らは降伏を拒む。傷ついた日本兵は米兵が調べに来るのをじっと待ち、近づいた米兵を手榴弾で自らの体ごと吹き飛ばすのである」と述べている。
このヴァンデクリフト少将のモットーは『我が海兵隊には降伏という伝統はない』というもので、のちにガダルカナルの戦いで第1海兵師団を指揮。その功績で名誉勲章を受章しているほどの人物なのである。
戦後になって平和な世の中になると前述のような戦況を見て、この一木支隊の戦いを無謀であり、日本兵の圧倒的情報量の少なさと無駄な戦闘命令を繰り返した愚策だと一蹴する論調が日本を支配した。
その中で、まだ上記に述べたような詳細な戦況は判明していなかったが、当時、特別任務を終えて帰還していた私の父は、復員してきた仲間からこの話を伝え聞き終わると、「これから彼らの死を無駄にせぬよう自分たちの手で、日本の復興という新しい渡河作戦を始めよう」と約束したというのである。
その話を私は、子供の頃から折に触れ聞かされてきたという訳だった。
もちろん、イル川渡河作戦という無謀な渡河作戦を決行し、壊滅させられるまで続けた一木大佐の決断を愚策、殺人鬼と罵る人がいるのも承知している。
しかし決して、あの河を渡ることを諦めなかった、あの男たちがいたこと。そして日本でそれを支えていた妻や家族、仲間がいたことを我々は忘れてはなるまい。
なぜなら彼らがいたからこそ、米国は戦後日本人を尊敬し、また畏怖することを忘れなかったからだ。
というのも日本占領の設計図を描くためにマッカーサーの要請で日本に派遣された陸軍次官ウィリアム・ドレイパー将軍は、訪日前にイル川渡河作戦をはじめ日本軍との戦いのデータを収集し、分析を開始した。
そのうえで日本を調査して回った結果、彼は特に大阪の四天王寺で出会った日本人の少年少女の礼儀正しさに心を打たれ、ついに日本人を紳士の国として遇すべきで、植民地扱いしてはならないと本国に報告。
これをホワイトハウスも受け入れたのだ。
そう、あの日、あの河を渡ろうとした、あの男たちは日本の国体さえも守り切ったのだ。
私は、この話を戦争に絡めるためにご紹介したのではない。今やこの世の中で、あらゆる人々が、企業のなかで、あるいはライバル企業、組織、社会との戦いを経験している。
もちろん、受験や病気、あるいは自分自身との戦いを強いられている人もいるだろう。新型コロナウイルスとの戦いも、その一つだ。
疲れ果て、もう辞めたい、死んでしまいたいと悲惨な思いで生きている人も多いだろう。
しかし多くの皆さんや若い人々に向けて私は今一度、この言葉を伝えよう。
『汝、風雲を恐れず、あの河を渡れ!』
今、私はがん撲滅という人類史の中を流れる巨大な暗い闇をたたえる河を渡ろうとしている。
驚くことに、河の中央にある中洲から、こちらに向けて攻撃を仕掛ける相手もいる。
それはそうだろう。この暗黒の河の中で利益や糧を得て彼らも暮らしているのだから。
だが私は、河の途中で沈むことも倒れることも恐れない。
なぜなら、あの河を渡ろうとしているのは、今、私だけではないからだ。
日本人はもちろん、あの死闘を繰り広げた米国の人々共に、闇のようなこの巨大な流れを恐れず、前進を開始したのである。
それが11月15日(日)開催の『日米がん撲滅サミット2020』(https://cancer-zero.com)である。
我々日米の有志は風雲を恐れず、あの河を渡り続けるだろう。
後に続く人々のためにも、心を込めてもう一度、この言葉を贈ろう。
『汝、風雲を恐れず、あの河を渡れ!』
中見利男拝