満開の桜も枝を離れ、新緑の季節となってまいりました。
読者の皆様におかれましてはお元気でご活躍のことと存じます。
2月に刊行された文庫版『神社仏閣に隠された日本史の謎と闇』(宝島SUGOI文庫)、また4月に刊行された小説『官兵衛の陰謀 忍者八門』(角川春樹事務所・時代小説文庫)、『別冊宝島 秘仏の謎』。いずれもお陰様で好評です。
とりわけ時代アクション小説の新たなシリーズの『忍者八門』とは、すべての流派で忍者が体得しなければならない気合術、体術(骨法術)、剣術、棒術、手裏剣術、火術、教門、遊芸の八つの技術のことです。これまでご愛読いただいていた火薬師の少年忍者・友海、暗号師の蒼海の暗号シリーズが装い新たな新シリーズとなりました。海外にも通用する忍者アクションの決定版を目指しています。
今回、私が『忍者八門』という小説を書いた理由は、ニンジャこそが闇の守護者であり、人知れず世直しをする大和魂を持った人々であったことを伝えたい。そういう思いで筆を執らせていただきました。
日本が世界に誇るニンジャの新たな活躍と成長を描いた本作品。表紙も気鋭のアーティスト、いわや晃さんが担当してくださいました。
ぜひとも、ご一読ください。
また『別冊宝島 秘仏の謎』も日本の独自の秘仏の謎に真っ向から取り組んだ力作です。とりわけ担当編集者の熱の入り方は凄まじいものがありました。1ページごとに美しい秘仏の写真が掲載されており、自宅にいながら秘仏参拝ができる本です。こちらもぜひご一読ください。
さて、このお手紙で何度かご紹介した伝説の企業家・平木信二(1910~1971年)に関するお問い合わせがあったので、もう少し詳しくご紹介させていただきます。
一代でリッカーミシンを日本有数のミシン製造メーカーに押し上げた創業者・平木信二は、一度不渡りを出し、倒産寸前まで追い込まれた伝説の人物で梶山季之氏が「小説現代」(講談社)に『小説平木信二』として発表。また『男たちの大和』で有名なノンフィクション作家の辺見じゅん氏が『夢、未だ盡きず』(文藝春秋)というタイトルでその人生を描き上げるほど魅力と異彩を放った企業家である。
1948年に19万5000円の資本金で発足したリッカーミシンは、一度倒産するも奇跡的に復活。1963年には30億円の資本を有する一大企業となり、支店も500余、従業員数も約1万6000人を擁するまでになった。
最初のオリンピックが東京で開催されたのは1964年であったが、このときリッカーミシンも尋常ならざる貢献をこのオリンピックの開催に向けて果たしている。
彼は収益の一部をリッカーミシン陸上部の強化にあて、飯島秀雄、依田郁子ら、幾多の選手を輩出したのである。
具体的に言えば、自社から陸上部10人、水泳部2人、ヨット部2人の計14人の選手を東京オリンピックに送り込み、オリンピック資金財団への寄付や海外遠征費、国内遠征費、競技場関連施設への援助など、合計すれば、軽く国庫の補助金分に相当するくらいの資財を投じ、東京オリンピックを成功に導く一方で、浮世絵の収集家であったことが知られている。
当時、海外に流出し、存亡の危機にあった浮世絵を買い戻し、日本文化の保護育成に執念を燃やした人物で、東京オリンピックの開催に併行して、三越を主会場にした浮世絵展を実施するため、暇さえあれば社員を海外に派遣し、浮世絵を競り落としたり、出入り業者から膨大な数の浮世絵を買い取ったりしていたのだ。
その平木信二の経営理念は、常に消費者の視点に立つものであった。彼は言う。
「衣食足りて礼節を知る言うやろ。まずこの国、建て直すためには衣食や。主婦がわが子のために服を作れるようにしてやらなあかん。そのためのミシンやで」
平木の行動理念は、ミシンは国民の幸福に寄与する神器の一つであり、その幸福の源となるリッカーミシンはそれ自身が幸福を追求した企業でなければならないと考えていた。そのことは、彼が自らの企業を誇った言葉からもうかがえる。
「私は社長として決して日本一、世界一大きな会社にしようなどとは、ゆめ思っておりません。ただ私は日本一幸せな会社、世界一充実した会社だけは創りたいと思います」
また、器という観点からも平木は器量人であった。
というのも、かつて彼は研修に訪れた1000人余りの従業員を前に、こうスピーチをしたことがある。
「私はミシンが作れません。皆の方がミシンを作らせたら上手です。また私はミシンを君らより多く売ることはできません。ミシンを売らしたら君らの方が私よりも上です。あるいは経理にしても、掃除をやらせても同じでしょう。君らと勝負したら、負けることばかりです。では、なぜ私がここにおるのか。なぜ、こうして君らの前でエラそうにものを言っておるのかといえば、それは社長をやらせたら私がナンバー・ワンだからです。私が社長をやっている間は君らを路頭に迷わせるようなことはせぇへん! それだけは自信があります」
これが本物の社長のセリフなのである。
最近つくづく思うのだが、政府が経営者に賃上げを要求する今の日本は、それはそれで素晴らしい政府だと思う。しかしよくよく考えれば、これはいびつな状況ではないだろうか。なぜなら、政府に言われて賃上げに踏み切るのではなく、本来は平木のように、「私が社長をやっている間は君らを路頭に迷わせるようなことはせぇへん!」という、まさに社員とその家族を守ろうとする強い覚悟や志が企業経営者にあるのかということだろう。
平木同様にそういう発想を持った経営者に、かつて石川島播磨重工業相談役だった土光敏夫(1896~1988年)がいる。彼はやはり次のように語っている。
「幹部は偉い人でなく、つらい人だと知れ! 私は誰かを重役に推薦するとき、あらかじめ本人を呼んで、家庭を犠牲にするくらいの覚悟があるかどうか奥さんとよく相談してほしいと、1、2週間の猶予を与えることにしている。それほど経営者はつらく、割に合わない商売なのだ。しかし、それぐらいでなければ、これからの企業体を預かる資格はない」
かつてマスコミがもてはやしたように、できる社長とは城のような家に住み、プライベートジェットを乗り回し、要塞のような別荘を持っていることが条件のように思われてきた。
しかし、東芝社長として東芝の再建に乗り出した土光敏夫は、毎朝6時前後に出社すると、まだ人気のない社内をゆっくりとした足取りで社長室に向かい、秘書が出勤するころにはすでにほとんどの決済を終えていた。
社長室のドアはいつも開かれており、このことが社員すべてに社長室が解放されていることを明確に物語っていた。社長の顔を知らない社員や社員の顔を知らない社長のいる会社など、土光にしてみれば論外であった。そして土光は私生活でも華美を戒めており、夕食のおかずはめざしであった。
岡山県に生まれた土光は、1920年、東京高等工業学校卒。石川島造船入社。50年、石川島重工業社長(60年に播磨造船所と合併、石川島播磨重工業に)。65年、東京芝浦電気(現東芝)社長。74年、経団連会長。そして88年に他界した。
東京芝浦電気社長時代に、社内報で自身の事業観、経営観についてこう語っている。
「仕事の報酬は仕事である。そんな働き甲斐のある仕事をみんなが持てるようにせよ」
人件費のカットにばかり目がいく財界のトップは耳が痛いのではないだろうか。
その土光敏夫は、まさに質実剛健を絵にかいたような人物で、その人柄を慕って彼の下には政治家や学者たちが教えを乞いに集まってきた。その土光は彼らに向かってよくこう語ったという。
「日本では肩書で人を見ることが多い。だから長と名の付く肩書がむやみにありがたがられる」
「社長はなるべく肉体の重労働を避けなければいけない。やむを得ず肉体の重労働をすることはあっても、まさか力仕事ではあるまい。しかし、社長は寝ていても社長である。猿が木から落ちても猿なのと同じだ。そこで社長は24時間、頭脳の重労働が宿命になる。頭を働かしているなら、働きすぎの文句も出ないだろう」
こうした考えを抱いていたのは平木や土光ばかりではない。かの本田技研工業創業者の本田宗一郎もこう言っている。
「社長なんて偉くもなんともねぇ。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。ようするに命令系統をはっきりさせる符丁なんだ」
これなども先にご紹介した平木の社長論に通じるものがある。従業員の給料は据え置かれても経営陣や株主への報酬・配当は格段に上昇している現在の企業活動を見て、二人はどう思うだろうか。
「社長? 社長らしい仕事したらどうや。社員とその家族を食わせてこそホンマの社長やで」
と、平木も、土光も、本田も、現在の経営者たちを一喝するのではないだろうか。
もう一度、言おう。現代の経営者、いやそればかりではない。医者や研究者のトップと平木の決定的違いは、自分たちより弱い立場にいる人に向かって君たちを路頭に迷わせない! と断言し、それを実行してみせられるかどうか、という点ではないだろうか。ひいては平木が社員を前にして語った「私は社長をやらせたら誰にも負けません」というセリフ。これを言い換えれば、「私は責任を取らせたら誰にも負けません」ということではないだろうか。そしてこの国、本来の大和魂とはそういうものだったはずである。
企業や組織のトップに立っている人たちに私は言いたい。そろそろ若い人たちに責任を押し付けるのはやめて、自分で取ってみせたらどうか、と。
そうすれば、その姿を見ていた人たちは、きっとあなたをどこかで復活させようと懸命に力を貸してくれるはずである。
お陰様で長年、東京女子医大の田邉一成教授と取り組んできた災害拠点病院の震災対応強化について、M御大をはじめ政府の和泉総理補佐官、また関係者の皆さんのおかげで政府の予算が獲得でき、食糧備蓄倉庫や自家発電などにかかわる経費が国と地方自治体の負担でできるようになりました。これで少なくとも災害拠点病院において、震災のときに入院患者の皆さんや、けが人を路頭に迷わせることはなくなりそうです。
ただし病院のトップが患者を路頭に迷わせないという強い意志を持ってくれなければ予算だけが宙に浮いてしまうことになりかねませんが……。
皆様のご協力と応援、本当にありがとうございました。
次はがん患者の皆さんを路頭に迷わせないため、東京女子医大の林基弘先生や俳優、タレントのダンカンさん、放送作家の小松さん、そして俳優の香川照之さん(予定)を中心にがん撲滅サミットの2015年6月開催に向けて準備を開始しました。
詳細についてはいずれ発表させていただきます。
国民病となったがんを撲滅しようという思いを持った人たちのサミットにしたいと考えております。
是非ご支援、ご協力のほど宜しくお願い致します。
季節の変わり目です。読者の皆様、どうぞお体どうぞご自愛ください。
中見利男拝