ご無沙汰しております。
広島で災害に遭われた皆様に心よりお見舞いを申し上げます。また御嶽山噴火でお亡くなりになった皆様と、その御遺族に心からお悔やみ申し上げます。
さて、高円宮典子女王と出雲大社の神職の千家国麿氏の御結婚式が10月5日、出雲大社で無事挙行されました。
天照大神と、その第二子の天穂日命を祖神とする皇室と出雲国造が結ばれるという歴史的な慶事は日本国民としても、歴史を愛する者としても大変喜ばしい出来事です。
その御結婚を記念して、9月12日に宝島社より単行本『出雲大社と千家氏の秘密』が刊行されました。
本書は出雲大社と出雲国造家に秘められたいくつもの謎に、暗号解読手法を駆使して斬り込む新しいタイプの歴史ミステリーです。
よく出雲は謎の海だといわれますが、たとえば情報機関のプロは、はっきりとこう言います。誰も知らない特ダネよりも、日常に出てくる情報を収集し、それをコツコツと分析することで敵対勢力をはじめとする各種情報を掌握できる、と。
歴史の暗号解読も、まさにこれと同じです。世に出尽くしている史料の中に隠れているものを解き明かすためには今、世に出ている史料がすべての鍵を握っているわけですから、これをまず分析していくことが王道なのです。そのうえで新しい角度で斬り込んでいく。
具体的にいえば、文献を大事にしながらも文献の波間深く潜ることによって、初めて海底深く沈んだ陰謀のパーツを見つけられるのであって、波の数をいくら数えても海底に何が沈んでいるかは永遠にわからないということです。そういう意味で本書は、出雲という謎の海深く潜り、海底に横たわっている古代の真相を一つひとつ集めて再構成した謎解き本です。
果たして大国主の国譲り神話とは、一体何だったのか? また出雲国造はなぜ出雲東部から現在の出雲大社の建つ杵築の地に移住させられたのか? こうした歴史の謎に迫る、まさに出雲版ダ・ヴィンチ・コードともいえる一冊です。ぜひご一読を。
さて、ここから中編の続きに入りたい。
新政府軍に包囲された近藤勇は東山道鎮撫総督府に出頭するも、そこでかつて新選組に所属し、新たに薩摩藩兵一員として活動していた加納鷲雄にその正体を見破られる。加納の証言を聞いた新政府軍首脳は仰天したが、薩摩藩兵は一軍の将として処遇すべきだと唱えた。しかし新選組に痛い目に遭わされてきた土佐藩は、坂本龍馬、中岡慎太郎の暗殺、さらに池田屋騒動、三条制札事件などの罪状を根拠に近藤の処刑を主張。
その結果、4月25日、厳戒態勢のなか板橋刑場で処刑が行なわれたのである。これは武士道にのっとった切腹ではなく、罪人としての斬首であったが、このとき近藤は、死に際しても顔色一つ変えず、警護の武士に「なかなかと御世話に相成った」と遺言し、首を差し出したのであった。そして一刀のもとに首を斬り落とされたのである。近藤の首は板橋で3日間晒されたのち、京・三条河原でさらに晒し者にされ、やがて京・東山山中に埋められた。胴体は瓶に入れられ、「近藤昌宣」という木札をつけて埋葬されたが、3日後の28日に近藤勇の甥で娘婿だった近藤勇五郎などの近親者が掘り出し、実家・宮川家の菩提樹の龍源寺(現・東京都三鷹市大沢)に埋葬したといわれている。享年35歳であった。
人は死に際して、どのように振る舞うかによって、その人の価値が決まるという。近藤勇のそれは泰然としていたというだけでなく、自らの犠牲によって土方歳三を生き延びさせた、という意味において非常な価値と輝きを放つ人生であったといえる。なぜなら近藤の死後、その土方はまるで近藤が乗り移ったかのように「鬼将」として生まれ変わるのだ。
慶応4年(1868)4月、新たに生まれ変わった土方歳三は、勝海舟との約束を守るため、旧幕府や幕府側諸藩の軍隊が集結しつつある下総国鴻ノ台(現・千葉県市川市)に向かった。というのも4月11日、勝海舟の努力が実り、江戸城は無血開城されるのだが、これに反発した旧幕府軍歩兵が次々と江戸を脱出し始めたのである。彼らは神君・徳川家康を祀る日光を拠点に新政府と対決しようとしていたのだ。全軍の総督には旧幕臣で歩兵奉行を務めていた大鳥圭介が就任。旧幕府軍を先鋒、本隊、後軍の三隊に分けると、先鋒を会津藩士・秋月登之助(あきづきのぼりのすけ)が指揮。土方は知名度と京での実績が評価され、その参謀役となる。
彼らは北関東の要衝・宇都宮城を攻略するため、宇都宮に進軍を開始した。
土方は7万7千石の堅塁を誇る宇都宮城の城下に火を放つと、桑名藩兵を率いて下河原門へ一方の秋月登之助率いる伝習第一大隊は城の北の中河原ノ門、さらに回天隊は城の南口の南館門にそれぞれ突入した。下河原門内には宇都宮城からの援軍が加わり、総勢500人を相手に激しい白兵戦が繰り広げられ修羅場と化す。
このとき土方歳三は激戦に恐れをなして逃げ出した兵士を一刀のもとに斬り捨て、「退却する者は誰でもこうだ!」と鬼の形相で自軍を一喝した。
これを見た兵士たちは後方を断たれたため、逆に奮い立ち、猛然と敵陣に突撃をはじめ、下河原門を突破した。これをきっかけに中河原門、南館門も陥落。午後4時頃、旧幕府軍はついに宇都宮城奪取に成功する。
ところが最後まで城に残っていた宇都宮藩家老が、二の丸御殿に火を放ち退却したため、城は炎上。その結果、土方らは場外に宿陣し、鎮火を待って翌20日に改めて宇都宮城に入城した。
一方、この日、進軍してきた本隊の大鳥圭介は宇都宮城陥落を聞き、わずか1000人の兵を率いた土方歳三が7万7千石の雄藩を破ったことを知り、絶句したという。土方歳三の面目躍如たる戦いであった。しかし、その後も新政府軍の猛攻は凄まじく、さしもの旧幕府軍も会津へ敗走を余儀なくされ、ついに東北から後退すると箱館に独立共和国を樹立するため北海道へ渡る。このとき、すでに新選組は壊滅状態に陥っていたが、幕府海軍副総督の榎本武揚と出会った土方は一計を案ずる。北海道への渡航を許可されなかった桑名藩や備中松山藩などの藩士に新選組に加入すれば、北海道に渡れると勧誘を始めたのである。その結果、新選組は200人に増員され、見事に復活する。ところが、このとき新選組の育ての親である旧幕医・松本良順は土方に対してこう説いたのだ。
「このまま抵抗を続けても時流に逆らうだけのことで何の益もない。それより命を得るために投降してはどうか?」
だが土方はこう答えてみせる。
「勝算があって戦っているわけではない。それよりも倒れようとしている旧幕府に殉じて死ぬ覚悟を貫いているだけのことだ」
かつての雄藩、大藩が次々と新政府に恭順の意を示すなか、土方歳三のこの覚悟は組織を超えた一個の人間の美学に裏打ちされたものである。その美学とは、もちろん武士道のことで、この心境がのちに土方歳三という鬼将を名将に変えていくことになる。それを端的に示したのが、北海道に上陸した新政府軍と箱館政府軍が箱館北方の二股口で激突した戦いであろう。
このとき新政府軍は二股口方面の箱館政府守備隊に襲い掛かった。これを迎撃したのが鬼将・土方歳三であった。
4月10日、わずか130人の兵を率いて五稜郭を出陣した土方歳三は二股口に布陣した。ここは険しい山中に道が一本通っているだけの防御に適した土地である。土方は西方の江差方面から攻めてくる新政府軍を迎撃するため天狗岳に前衛基地を、さらに台場山に16か所の塹壕陣地を突貫工事で構築すると、新政府軍の到着を待ち受ける。
13日午後3時、長州藩を中核とする新政府軍がいよいよ天狗岳の前衛陣地に向けて攻撃を開始。わずか1小隊しか配置していなかった前衛陣地は、背後から攻撃を受けて簡単に突破されたが、台場山の本陣こそが土方軍の本拠であった。日没後、新政府軍約500人が進撃してくるなか、およそ200人の兵士は塹壕にこもって迎撃を開始する。
折からの雨に兵士たちは上着を脱いで弾薬などに掛け、銃弾の雷管を湿らせないように懐に入れ、体温で乾かしながら敵の銃火の光を頼りに銃撃戦を展開。夜が更けても戦闘は続き、ついに土方は決死隊を募って敵の側面を衝こうと決意するも敵陣に接近する前に夜が明けてしまう。
果てしなき戦いは約17時間に及び、ついに土方軍攻略を断念した新政府軍は14日午前7時、退却を開始する。このとき新政府軍は10万発、土方部隊は3万5千発の銃弾を撃ち尽くしたといわれるほど文字通りの死闘だったが、土方歳三はこれに勝利した。
土方部隊の死者はわずか1人、負傷者は7人。対する新政府軍は30人の死傷者を出し、およそ12キロ後方の稲倉石まで後退した。
両軍は山中で睨み合いを続けたまま、4月23日を迎える。
午後4時頃、兵力を800人に増強した新政府軍が再び台場山に攻撃を開始。死闘の幕が斬って落とされる。対する土方部隊は伝習士官隊員小隊が援軍に来たものの、兵力はわずか200人程度。
一方、新政府軍は台場山本陣の背後から回り込み、奇襲を掛ける動きを見せたが、これを陽動作戦だと見破った土方は「退く者あればこれを斬る!」と士気を煽り、ついに戦闘は夜中まで続くことになる。銃撃隊の兵士たちは銃身の熱を冷ますため、川で汲んだ水を桶に入れ冷却しながら戦ったほど、それは凄まじい銃撃戦であった。
兵力、武器弾薬は圧倒的に有利だったが、新政府軍は相変わらず土方軍を攻めきれずにいた。一方、援軍と交代しながら攻撃する新政府軍に対し、援軍がないため不眠不休で戦闘を続ける土方軍。実は土方は、この圧倒的不利な状況を切り抜けるため兵士の体力、士気が低下するのを防ぐため「退却する者は斬る!」と脅す一方で、酒樽を抱え、小休止をしている兵士に酒を振る舞って回っていたのである。「君たちは一兵卒に過ぎないが、よく戦っている。もっとほうびを与えたいが酔っぱらって軍律を犯しては元も子もないから今日のところは一杯だけだ」と軽口を叩いては兵士たちの爆笑を誘っていたのだ。
つまり土方は死闘のさなかでさえ、巧みにアメとムチを使い分けていたのである。
こうした土方部隊の徹底抗戦に手を焼いた新政府軍は弾薬も戦闘意欲も失い、25日午前3時、ついに撤退を開始する。この死闘で失われた土方軍の兵士は6人。対する新政府軍の死者は10人を超えている。またしても土方歳三の完勝であった。
だが、結局、軍事力と武器弾薬の量で圧倒する新政府軍は箱館山の裏手から上陸すると箱館の市街を制圧する。このとき箱館市内の沖合に位置する弁天台場を守備していた新選組は孤立し、籠城を迫られた。だが新政府軍はさらなる猛攻を加え、新選組隊士は次々と命を落としていく。これを聞いた土方歳三は、わずか50人の兵士を率いると救出に向かうのである。このとき榎本武揚は「降伏という手もある」とほのめかしたが土方は敢然と微笑しながら、「俺は近藤勇と一緒に死ねなかったことが一生の不覚だと思っている。もし、ここで降伏して生き延びたとしても、あの世で近藤勇に合わせる顔がないだろう」
こう言い放って五稜郭を飛び出していったのだ。
窮地に立たされた仲間を守り、助けるという姿勢を土方が見せたことで、かつての鬼将は名将となった。同時に、仲間を救出するための戦いが土方にとっては最後の戦いとなり、彼は一発の銃弾に倒れるのである。
前編からお伝えしてきたように、大名という地位を求めた新選組は崩壊した。だが武士道のど真ん中に立つという位置を土方が求めたときに、彼は名将となり伝説(レジェンド)となったのである。
今、失われつつある本物の友情とは窮地に追い詰められた友を救うために敢然と立ち上がることであって、いつもつながっていることではないのである。なぜなら、土方歳三を名将に変えたのは、誰あろう天にいち早く旅立った近藤勇の御魂だったからだ。大事なことは「敗れて目覚める」ということであり、窮地に立たされた自軍を叱咤激励した土方のように弱者を救うためには時として人は心を鬼にすることが大事なのではないだろうか。
一度は転落した土方歳三だったが、彼はいつも友人や仲間のために少人数で立ち上がったことを少しでも多くの人々に知っていただければ幸いである。時代は必ず変わる。明治維新以降、人殺し集団と罵られていた新選組に対する評価は変わり、土方歳三はラストサムライとして、その名を歴史に刻まれるようになった。もっとさかのぼれば、かつて国譲りを大国主に迫った皇室の末裔の一人の女王が、一度は敵対した子孫とともに新しい一歩を夫妻として踏み出したことがその証左でもある。時代は必ず変化する。物事が変化するということだけが永遠に変化しない真理なのである。だからこそ皆さんも変化を恐れずに勇気を出して前進して欲しいと願っている。
季節の変わり目です。皆様どうぞご自愛ください。
中見利男拝