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『不易流行と武士道〜吉田松陰と松下村塾の秘密と謎』
 あけましておめでとうございます。
 昨年は豪雪、ゲリラ豪雨、地震、竜巻などの天変地異が続き、正しいと主張されていたことが覆されたりと違和感というより、むしろ異和感の『異』の年でした。しかし2015年は異から大いなる『和』へと変化する『大和』の年になると信じております。
 とくに私が顧問を務めさせていただくがん撲滅サミット(2015年6月9日〈火〉午後11時30分開場、12時30分開演、パシフィコ横浜)は大和魂を持った人々が立ち上がるがん撲滅へのチャレンジです。ぜひともご支援ください。詳細はがん撲滅サミットURL(http://cancer-summit.jp/index.php)をご覧ください。
 また1月15日には新刊『吉田松陰と松下村塾の秘密と謎』が宝島社より刊行されます。
 吉田松陰という謎の人物の正体は!?
 松下村塾は革命機関だった!?
 大老・井伊直弼が放った女スパイとは!?
 伊藤博文は暗殺者とスパイの二つの顔を持っていた!!
 など、吉田松陰と松下村塾に隠された謎が次々と明らかにされる歴史ミステリです。本当は恐い彼らの素顔を知ることのできる一冊として、ぜひご一読を!

 さて、ここからは吉田松陰の人生について数回に分けてお届けしたい。 吉田松陰は文政13年(1830)8月4日、長州藩の下級武士・杉百合之助(すぎゆりのすけ)と滝子(たきこ)の二男として萩の松本(まつもと)村に生まれた。
 生家は萩から4キロほど離れた城下町を一望できる通称・団子岩(だんごいわ)にある古い一軒家。その周囲は本当に見晴らしの良い気持ちの良い場所である。父・杉百合之助は「無給通組(むきゅうどおりぐみ)」と呼ばれる下級武士で、家督は26石。
 ちなみに「無給通組」とは、年貢を取り立てるための給地を持たず、藩からわずかの禄(ろく)を受けて生活をする武士のことである。杉家には曾祖父のときの借金があり、その返済があったため、実際は23石。それ以外にも藩からは馳走米(ちそうまい)と呼ばれる特別税と四つ成(なり)と呼ばれる制度があり、実際は4割しか支給されなかったため、その多くが天引きされた結果、杉家は農業中心の苦しい生活を強(し)いられていた。
 とくに1830年から1844年までの天保(てんぽう)年間は飢饉が全国に広がり、各地で一揆が発生するなど、200年以上続いた徳川幕府の体制が揺らぎ始めた時代であった。長州藩でも松陰が生まれた翌年の天保2年(1831)には藩全体を巻き込む一揆が発生。その原因は赤字財政の末に打ち出した長州藩の産物会所(さんぶつかいしょ)設立と、農作物の買い叩き政策に対する反発で、10万人を超える農民たちが農作物の自由販売を求めて起ち上がったのである。
 これに対して長州藩は沈静化に乗り出したが、幕府同様、松陰の故郷にも、こうした改革機運が押し寄せていたのである。
 そんな時代に生を受けた松陰には、2歳上の兄・梅太郎(うめたろう)と弟の敏三郎(としさぶろう)、そして千代(ちよ)、寿(ひさ)、艶(つや)、文(ふみ)の4人の妹がいたが、艶は夭逝(ようせい)している。

 父は農作業に出る際、幼い兄とともに松陰を連れていき、そこで農作業のかたわら武士の心得や尊皇(そんのう)の精神を説いたという。また松陰には、養子先で家督を継いでいた吉田大助(だいすけ)と玉木文之進(たまきぶんのしん)という二人の叔父(おじ)がいたが、とりわけ松陰の家からほど近い場所に住んでいた玉木文之進が、のちに松陰の運命を大きく変える存在になる。
 というのも吉田大助の養子先の吉田家は長州藩の兵学師範(山鹿流兵学(やまがりゅうへいがく))の家柄だったが大助に跡継ぎがないため、幼い松陰が吉田家に養子に入ることになったのだ。
 ちなみに山鹿流兵法とは江戸時代前期の儒者(じゅしゃ)・山鹿素行(やまがそこう)によって創始された兵学で、戦乱の世が終わったことに合わせて単に戦術を学ぶだけではなく、儒学を土台に武士の心得を重視した独特の兵法である。素行は自分の兵学を「武教」と呼び、『武教全書(ぶきょうぜんしょ)』や『武教本論(ぶきょうほんろん)』を著(あらわ)したが、元禄15年(1702)に吉良上野介(きらこうずけのすけ)邸に討ち入った赤穂浪士(あこうろうし)も山鹿流兵学を採用していたことから、その名が全国に知れ渡った。
 こうした兵学を伝えていた吉田家だったが、当主の吉田大助がまもなく急死したため、わずか6歳にして松陰が家督を継ぐことになった。その結果、藩校・明倫館(めいりんかん)の兵学師範の道を選ばざるを得なくなったため、必然的に山鹿流免許皆伝(めんきょかいでん)だった叔父の玉木文之進の教育を受けることになったのである。
 この玉木文之進は自宅で『松下村塾』を開いた人物で、幼い松陰にも妥協や甘えを決して許さなかった。学科は四書五経(ししょごきょう)と兵学書で、わずか5歳でこれを理解することは困難だったが、ともかくも頭の中に語句を詰め込むスパルタ教育を施した。とくに文之進は松陰が暗誦を間違えると竹鞭(むち)で叩き、座敷から放り投げることもあったという。

 こうした厳しい教育の結果、天保9年(1838)、松陰は9歳で藩校・明倫館の家学教授見習となった。しかし実態は肩書だけで、松陰は門下生に交じって聴講していたのだが、その成果もあって11歳になったとき、藩主・毛利敬親(もうりたかちか)の前で講義をするところまで成長した。実際は藩主の面前での試験ではあったものの、このとき彼は山鹿流『武教全書』戦法篇を朗々と講義したため、これには居並ぶ重臣たちも驚いたという。その日から「松本村に天才あり」と松陰(当時は大次郎)の名は城下に轟(とどろ)いた。
 また松陰の後見人の一人、山田宇右衛門(うえもん)が山鹿流兵学以外に西洋兵学を学んでいたことから、彼は松陰に『坤輿図識(こんよずしき)』という世界地理書を貸し与え、長沼流(ながぬまりゅう)兵学の師範・山田亦介(またすけ)について学ぶよう勧(すす)めた。

 こうした新たな学問は松陰の視野をさらに広げるきっかけとなり、やがて19歳で玉木文之進ら後見人から離れ、藩校・明倫館の独立師範(兵学教授)に就任。翌嘉永2年(1849)3月に御手当御内用掛(おてあてごないようがかり)を拝命し、ロシアが日本海をわたって攻めてくるという緊急事態を想定し、藩の海岸の要所要所に台場や見張り台を設置する担当者となり、積極的に藩に提言活動を行なった。
 21歳のとき、見聞を広めるため長州藩に九州遊学を希望し、10ヶ月の遊学許可が下りた。そして嘉永3年(1850)8月、吉田松陰は九州遊学の旅に出た。平戸、長崎、熊本と旅をした彼は、そこで山鹿万助(まんすけ)、葉山左内(はやまさない)、宮部鼎蔵(みやべていぞう)などと出会い見聞を広めたが、とりわけ熊本藩の名士だった宮部鼎蔵とは国防問題で意見が一致したことから、親交を深めるようになった。
 この宮部は松陰より10歳以上年上だったが、生涯の友となる。後に松陰が江戸に遊学したときも、そこで再開し東北に旅行した仲であった。彼は松陰の死後、勤皇の志士として活動し新選組(しんせんぐみ)が池田屋(いけだや)に踏み込んだとき自刃している。

 さて嘉永4年(1851)3月、参勤交代に同行して江戸に遊学した松陰だが、彼はこのとき佐久間象山(さくましょうざん)と出会っている。
 象山は文化8年(1811)、信州松代藩(しんしゅうまつしろはん)の下級武士の子に生まれ、儒者としてデビューしたが、アヘン戦争の衝撃を受けて洋学と海防に専念。江戸で西洋砲術の塾を開き、吉田松陰や勝海舟(かつかいしゅう)、坂本龍馬(さかもとりょうま)らが門人であった。
 対外的な危機を乗り越えるためには、開国して西洋の科学技術を導入し、富国強兵に努めなければならないという思想の下、松陰は長岡(ながおか)藩士の小林虎三郎(とらさぶろう)とともに「象山の二虎」と称されるまでに成長。
 また安房(あわ)出身の儒者・鳥山新三郎(とりやましんざぶろう)が主宰する「蒼龍軒(そうりゅうけん)」塾にも通っている。ここは江戸に留学してきた諸藩の若い武士たちが集う場となり、松陰は多数の尊皇攘夷の志士と交流した。さらに、この年の12月には宮部鼎蔵や蒼龍軒で知り合った南部(なんぶ)藩士の江幡五郎(えばたごろう)とともに水戸学や海防などを学ぶため東北旅行を計画するが、長州藩から関所(せきしょ)通過書が届かないため、「友との約束を守らなければ」という一心から、当時重罪だった脱藩(だっぱん)を決行する。その後、宮部鼎蔵らとともに水戸(茨城)に立ち寄り、当時70歳になっていた『新論』の著者・会沢正志斎(あいざわせいしさい)に会い、教えを受け、その後、白河(しらかわ)と会津若松(あいづわかまつ)を通り、出雲崎(いずもざき)から佐渡(さど)に渡っている。さらに北上を続け、秋田、弘前(ひろさき)を通って津軽海峡の竜飛崎(たっぴざき)に到達。そこから一転して南下すると、盛岡(もりおか)、仙台(せんだい)、米沢(よねざわ)を経て、江戸に向かっている。翌、嘉永5年(1852)4月5日、江戸に戻った松陰は藩邸へ出向き、脱藩の一件で自首をした。その結果、国元へ送還され、士籍(しせき)と禄世(せいろく)が剥奪(はくだつ)された。

 こうして藩士の身分を失ったため、父・百合之助の保護下に置かれた松陰だったが、彼の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出たため、2度目の江戸遊学を行ない、佐久間象山に再び師事することができた。
 嘉永6年(1853)6月、ペリー提督(ていとく)率いるアメリカ合衆国、東インド艦隊が浦賀(うらが)に来航したため、松陰は浦賀に出かけ黒船を観察するが、これにショックを受けたことから幕府の国防に対して危機感を覚える。
 西洋列強を知り、日本を守るためには西洋先進国の現実を知ることだと覚悟した彼は、海外渡航を決心する。

 ▼海外密航の失敗と挫折
 まずペリーが去って1ヶ月後、今度はプチャーチン率いるロシア艦隊四隻が長崎に入港したという報告が届いたため、松陰はロシア船に乗り込んで密航しようと長崎へ向かうが、到着したときすでに遅し。艦隊は出航したあとだった。しかしロシア艦隊は短期間で再来航したのだが、何も知らない松陰は再び江戸に戻った。

 ところが嘉永7年(1854)1月14日、再び来航したペリーは威圧的な態度で幕府の制止を振り切り、江戸市街に近い羽田沖まで接近し、勝手に江戸湾を測量。砲艦(ほうかん)外交に屈した幕府は3月3日、日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を締結。伊豆の下田(しもだ)と北海道の函館(はこだて)を開港し、米艦に料理や食糧を提供することになった。そこで松陰は、ついに条約締結後に下田沖に停泊していたペリーの艦船に乗り込む決断をする。
 このとき松陰の密航計画を知った長州藩足軽(あしがる)の金子重之助(かねこしげのすけ)(重輔)とともにペリーの船に乗り込もうと八方手を尽くすが、すべて失敗。ついに夜間、下田に移動したペリーの船に小舟を漕ぎ寄せ、旗艦(きかん)ポウパタン号上で主席通訳官のウィリアムスと漢文で筆談し、アメリカ渡航を要望するが、アメリカと日本は条約締結間もないため、互いの法律を守る義務からペリー側は松陰たちの必死の頼みを拒絶。松陰の密航計画は、ここに頓挫(とんざ)する。
 このとき松陰が手渡した手紙が、のちにアメリカで発見されたが、そこには「日本国江戸府書生・瓜中萬二(かのうちまんじ)(松陰の偽名)、市木公太(いちきこうた)(金子重輔の偽名)、呈書 貴大臣各将官執事」という書き出しで、「外国に行くことは禁じられているが私たちは世界を見たい。(密航が)知られれば殺される。慈愛の心で乗船させて欲しい」と訴える文章が綴(つづ)られていた。
 しかし、このとき小舟が波に流されてしまっていたため、結局、松陰らは米艦のボートで岸に送り返された。ところが不運にも流された小舟は岸に打ち上げられ、船中に置かれていた大小刀や所持品が下田番所の手に渡ることになった。だが当初は事の発覚を恐れた番所の役人たちは2人を逃走させようとしたが、至誠(しせい)で事に当たることをモットーとしていた松陰らは、逆に自首をしたのである。
 やがて松陰と金子は江戸伝馬(てんま)町の牢屋に入れられた後、萩に強制送還されることになった。このとき松陰は野山獄(のやまごく)、金子は野山獄と道一本隔てた岩倉獄(いわくらごく)へ、それぞれ投獄されたのである。
 この野山獄への投獄経験が、玉木文之進が生んだ松下村塾をやがて新しく生まれ変わらせるのである。以下、次回に続く。

 寒い日が続いておりますが、読者の皆様、どうぞご自愛ください。
中見利男拝
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